朝のドラマの主題歌が何を言っているのかわからない

皆さまは、いわゆる朝ドラ、
NHKの「連続テレビ小説」を
ご覧になっていらっしゃいますでしょうか。

実家では真剣にみるかどうかは置いておいて
毎朝その時間はNHKにチャンネルが合わせられているのですが、

それを見ながら、母が、このようなことを言ったのです。

「みんな、この歌の歌詞、聞き取れるの?」

うーむ、正直私も、単語が分かる部分と、
何言ってるのかよくわからない部分とがあります。

でも実際、そういう歌は多い。
いや、最近増えてきている、というべきでしょうか。

ラジオでもこんな話をしていました。

「若いスタッフに聞いたところ、
いま多くの若者は、歌にストーリーなんか求めないんですって」

もちろん例外はあるでしょうが、
確かにそうみてとれる傾向はあるかもしれません。

明確なストーリーなどなく、
語感、リズム感を聴く人に心地よく設計された歌。
そういった抽象的な歌が、特に近年は
音楽界にあふれているように思います。

なぜでしょう?

ある評論に書かれていたのが、

他人のストーリーを聴くのではなく、
言ってみれば、
自分のストーリーの
バックグラウンドミュージックとして聴ける、
ということがある。

誰かの世界観に没入するより、
自分の世界に没入したい、
最近はそう思う人が多い。

ということ。
それは確かにありそうです。
そこからさらに根底にあると、私が思うことは、

まず、多くの支持を集める歌が
【集合的無意識】を表現していること、
そして、その集合的無意識が、
どんどん抽象的になっていること、
です。

かつて、高度経済成長の時代などは、
高みを目指す思いや、
体制に反抗する意志、
シンプルな愛憎、
といったものが歌われれば、そのメッセージ性が強いほど
多くの支持を集めたのではないかと思います。
私も子供のころ、メッセージ性が強い歌に惹かれました。

しかし、今はそうではありません。
かつての歌は【集合的意識】を表現していたといえるかもしれません。
いまや多くの人に通ずる【集合的意識】と呼べるものがなく、
【集合的無意識】に訴えかける歌が時に、
ヒット曲となるのではないでしょうか。
そして、その集合的無意識も
より混沌とし、情報が氾濫する現代の中で、
皆が、こんな思いを抱いている、というような
共通の土台を見出すことなく、
どんどんと抽象的になっているのではないか、と。

抽象的になっていくこと自体は
悪いこととは思いません。
たとえば、和歌などは実に抽象的です。
しかしその抽象性が生きるのは、
時代を知り、歴史を知り、地理を知り、文学を知り、
それらを深く理解するという
共通土台ありき。

では今新しく生まれている歌に
必要な共通土台とは何でしょうか。

私たちの集合的無意識、
あらゆる情報の共通土台…。

それを示唆してくれたのが認識技術・nTechでした。

世に流行する歌は様々ありますが、
nTechを通して観れば、
集合的無意識を明白に表現したことが受け入れられた歌なのか、
市場の論理でヒットさせられた歌なのか、
正体を見極められるかもしれません。