私が、少年だったころのお話を。
Sくんは特別な子でした。
小学校の同級生。
“あばた”の多めの顔立ちはともかく、クラスメイトにハナクソをなすり付けたり、苦手な給食のおかずをこっそり机の中に隠して腐らせたりと、その強烈な個性を伴う素行は、周りのみんなが彼を疎ましく思うのに十分でした。
やがて彼を排除し、逆に彼に嫌がらせをしはじめるような雰囲気が広がるのを、先生は見過ごすわけにはいきません。
ある日のいわゆる「学活」の時間、先生はクラスのみんなに向かって
「一体君たちは、君たち自身がSくんに対して行っていることが、正しいと思っているのか。」
と恫喝しました。
みんな反省します。
「ならば、君たち一人ひとりが今思っていることを、S君に伝えなさい。」
先生の「指示」に、みんな一人ずつ起立し、
「Sくんごめんなさい」
「これからは気を付けます」
と反省の言葉を述べます。
私の順番が近づくにつれて、何とも言えない思いが湧き、そして消えました。
私もそれまでに、人並みに仲間外れとかは経験してきた。その怖さ・つらさはわかる。でもこの後言う言葉に心がこもるかわからないのだけど…。ここはしかし反省の言葉を述べる場面だ。。だけど…?
そして私の番、とっさに口を突いて出たのは、クラスの誰もが言語化しなかったことでした。
「僕たちも悪かったです。でもSくんにも、反省するべきところがあるはずです。」
先生が、Sくんが、その言葉にどう反応したのかは思い出せません。
憶えているのは、
クラスメイトの…喝采でした。
その「学活」の場がどう収拾されたのかも忘れてしまいました。
憶えているのは、学校の帰り道、
焦りのような、後悔のような、虚しさのような、そんな感情です。
喝采を受けて一時、気をよくした、その自分自身をも思い出しながら。
言いようのない、恐怖にも怒りにも似た感情を抱えて、歩いた、帰り道を、
憶えています。
あの時の帰り道に感じた思いを、言葉にできるようになるのは、同じような経験を重ね…歳を重ねてからです。
本音を言えた。それを理解してもらえた、認めてもらえた。
だというのに、この感情は一体何なのか。
そしてその感情の正体が分かるのは、さらに後になって、認識技術による解析と再構築を得てからです。
私(たち)は建前ばかりで本音を言うことが少ない。
しかし正論で武装した本音を発信すれば、
それは認められ、その結果、場を制圧できる。
しかし、それが私がやりたかったことか?
【本音を言えないこと】には憤怒がある。
しかし、真に憤怒があるのは、
【本音を言ったところで、制圧“する側”と“される側”、
その断絶を生むしかない】ということだ。
少年の私は、【本当に伝えたいこと】が何なのかわからなかったし、そして、それを伝えられることばもイメージも持っていませんでした。
だから、感情だけが動いたのです。
Sくんの非を認めさせたかったわけでもない、月並みな反省を要求する先生に反駁したかったわけでもない、
こんなはずじゃない…!
私が何を望んだのか。
骨髄深くから沁み出るように
そ れ だ !!
と言えるものが見つかった時、
抱えきれぬ感情に怖れながら歩いた少年の日の帰り道は、まったく違った色彩を放ち、あの日と、今がつながりました。
それが、過去と現在の、“調停”でした。
Sくんは元気かな、
先生はご存命だろうか、
クラスの皆はどんな人生を歩んでいることだろう。
みな大小の差はあれ、それぞれに困難と対峙し日々挑戦していることに違いないのでしょう。
骨髄深くから沁み出した「それ」が何だったのかについては、また別の機会に書き残したいと思います。
交響曲を言語で表現するに似た困難な作業ですが、私の半生に大きな贈り物をくれた方々と、ここまで読んでくださった皆様に感謝をこめながら。
2018/5/1追記→「それ」について書きました。