10月が終わる、
路傍に柿が落ちている。
野鳥に突つかれもせず、
土埃をかぶり、
ただ、腐ってゆく。
10月、
かつて私の人生の中で、
今までにない挫折を経験した季節でもありました。
大学生の折、
卒論が書けず、留年を経験した年。
中間の期限までに
必要な課題を提出できず、
ゼミの教授に
「あなたはもう、4年で大学を卒業することはできないので。」
と宣告されたのが、
10月でした。
それからの大学生活を思い返すと、
まるでこの柿のよう。
自分でどこに動くこともできず、
抱いた種を、芽吹かせるための土に
運ぶこともできず、
ただ腐り、干からびていく。
申し訳がない。
親にも、教授にも、
仲間にも、
教育実習でお世話になった先生にも、
子供たちにも。
どこにも行けない、
何にもなれない。
世界の流れから脱落したという、
強烈な劣等感は
それまでももちろん無意識にはありましたが、
その時、はっきりと自覚しました。
状況が変わり、
社会に出てからも、
出来ることは増えたようで、
その意識は全く変わりませんでした。
変化が始まったのは、
nTech、認識技術と出会ってからでした。
私は路傍に落ちた柿だった。
でも、実は、
その柿を拾う者だった。
その柿を受け入れ、芽吹かせる大地だった。
それを、ただ思い込むのではなく、
なぜそうだと確信し、
そうだったと伝えられるのか、
そのための論理とイメージを得られる道が見えた時、
私の意識は、ゆっくりと
路傍の柿の中から、外へと、
外へと。
柿が落ちている。
この中にも、生命が揺らめいている。
たとえどうなろうと、
命の情報と力を、種に集めようとしている。
私の姿、
世界の姿。
外があるからこそ、必死に頑張っていたんだ、と。