農業で生きていけたら

「スローライフ」という言葉がある

スローライフにあこがれる方の話はよくお聞きします。
そのイメージは多くの場合、農作業と結びつていますね。

有名なアニメ映画でも、こんなことを言ってました。

『土に根をおろし、
風と共に生きよう。
種と共に冬を越え、
鳥と共に春をうたおう。』
― ゴンドアの谷の歌 ―

このような牧歌的なイメージが
多いのではないでしょうか。

私の知る農業はスローではなかった

しかし代々の農家として続き、
戦後の農地解放を通過したかつての
いち 農家に生まれた私が認識した農業とは、
決してそのような「スロー」なものではありませんでした。

暗いうちから起きて働くのは当然のこと、
一切の休日というものはなく、
果樹園をやっていた祖父は
リンゴの花咲く時期は、
消毒に使う農薬のため毎年体調を崩していました。

補助金がどの作物にかかるかで
手にする稼ぎは激しく増減し、
自分たちの未来を自分たちで決められない、
誇りと尊厳を持てない。

それでも土とともに生きられたら

山奥に籠り、自給自足に近い生活をするならば、
このような近代農業が抱える問題を
ある程度無視できるでしょう。

そうまでして土とともに生きたいと、
願う人もいるでしょう。

農業といえど、人を傷つけ、自分を傷つける

土。
神聖で、あるがままで恵みをもたらす、土。

農業とは、
それに鍬を突き立て、掘り返すこと。

狩猟採集の民、遊牧の民からすれば、
侵略行為そのものだったに違いありません。

その農業の破壊的な側面を、
無視することはできません。

自然は常に厳しく、
農業も常に他者との戦いであり、
同時に自身を傷つけています。

自分自身の可能性、農業の可能性

もちろん農業に限ったことではありません。
しかし身近にあった土との暮らしの
理想と現実にふれて、
その指針や希望は私の中で、
きわめてあいまいになっていたものです。

認識技術に触れて、
その視点は大きく変わりました。

農業が抱える問題より、
優先して取り組む課題があることがわかります。

農業そのものより、
それを行う自分自身をどう思うか。

自分自身の可能性の一部だけを切り取り、
同じく切り取られた農業という枠に押し込む。

人を傷つけ、自分を傷つける、とはそういうことでした。

では自分や農業の本来の可能性とは何か?

農業で生きていけたら。
やはりそう思うこともあります。

でも今は、その前に、
本来あらゆる人が取り組まなければいけない課題と、
向き合っています。