文章を書いていると、
それが自分の言葉なのか、
どこかで読んだり聞いたりした言葉に
自分の感情を流し込んで
書いているだけなのか、
わからなくなってくること、ありませんか?
文章を生業にする人でなくとも、
誰かに手紙を書くとき、
ふとした思いを伝えるとき、
これ…あの時読んだ・聞いたことを
まねて言ってるだけだなあ…と
思ってしまうことがよくあります。
そういう感覚を繰り返していると、
そもそも《創作》なんてありえないんじゃないだろうか、
オリジナルなんて、もうどこからも、
まして自分から生まれるなんて、
とても信じられない。
そんな思いに駆られてしまうことも。
弁論大会にて・・・
中学生のころ、校内行事の弁論大会に
出されてしまったことがあります。
夏休みの宿題の作文が評判が良かったようで。
吹奏楽部で活動するために、
テナーサックスという楽器を買ってもらう、
その一連の出来事を書いたものでした。
しかし出場にあたって、
その私の作文は国語の先生に、
これでもかというくらい“朱”を入れられ、
(当時の私からしたら)もう原型がないのでは、
と思えるほど修正されてしまいました。
もちろん国語の先生も悪気はありません。
いかに「伝わる」「美しい」文章であるか、
そのために修正してくれました。
しかし、全文字数の半分くらい朱の入った原稿を眺めながら私は、
どうしても2か所だけ、
原文へのこだわりを捨てることができませんでした。
当日、清書された原稿は演台に置いたまま
「ぼくのテナーサックス」
と修正されたタイトルは
「楽器を買うために」
と、
「やっと手元に届いた楽器をみると、感謝と感激がこみあげてきて胸がいっぱいになりました」
と修正された、最後から2番目の段落の結びは
「やっと手元に届いた楽器をみると、なんだか、なけてきました」
と。
自分のことばで伝えてみたい、
ささやかな反抗を、
本番でやってみたのでした。
国語の先生はどう思って聞かれたのだろう。
後日言われました。
「すばらしい弁論でしたよ。
しかしところどころ原稿が直っていなかったかな?
ちょっと、“どこかの漫画やテレビで聞いたような言い回し”が
残っていたようですね。」
自分の言葉で喋ってやった。
そう思っていたけど、
むなしく残念な気持ちにもなるのでした。
何より、自分自身が、
「自分自身の言葉でない」ことを認めてしまっていました。
創作って、
何なんだろう?